ダーク ピアニスト
〜練習曲7 復讐の翼〜

Part 2 / 3


 翌日、エスタレーゼは父のジェラードに呼ばれてドイツに帰った。
「ルビーも退院出来て、大分元気になったし、あとは二人で大丈夫ね」
「うん。僕、大丈夫」
ルビーが言った。
「元気で」
とギルも挨拶する。
「二人共、あまり無理をしてはダメよ。『レッド ウルフ』には手を出すなって、お父様が……」
「わかった。ジェラードによろしく伝えてくれ」
エスタレーゼが出て行ってしまうと、何となく部屋はガランとして寂しくなった。
「行っちゃったね」
「ああ」
「僕、少しベッドで眠りたい。昨晩はちっとも眠れなくて困ったの」
卵をいじりながらルビーが言った。
「そうだな。少し休むといい」
「うん。今夜はオムレツ作ってくれる?」
「ああ」
「ありがと。それじゃ、おやすみなさい」
と言ってルビーは2階へ上がって行った。

 一人残ったギルフォートは、頭の中で情報を整理した。今回の件、ジェラードは関与するつもりは全くないらしい。元はと言えば、『レッド ウルフ』の一員であるジーン ゲートマンを殺る事と情報を得る為に自分は派遣され、ロンドンまで来たのではないか。なのに、今更、手を退けとはどういう意味なのか? ギルは納得出来なかった。確かに『ヘビー ダック』は一癖も二癖もある難物だが、そもそも反りの合わない『レッド ウルフ』の幹部なのだ。相手からすれば、ジーンを殺られた払いせにルビーを狙ったのかもしれないが、差別的な奴の考えが気に食わなかった。戦いの末の死なら仕方がない。実力が足りなかったのだと諦めよう。しかし、これではまるで騙まし討ちだ。いや、場合によってはそれもある。だが、人を見下し、侮蔑する態度が気に障った。エスタレーゼが言った通り、ジェラードはこの件から手を退けと通告して来た。だが、答えは……。

――ナイン

しかし、ギルは、この件を放置するつもりはなかった。彼はパソコンを立ち上げると情報を探った。
 それから、何時間が過ぎた頃だったろうか? 表の通りが賑やかになった。子供達が学校から帰る時間になったらしい。小鳥のさえずりのような愛らしい声が聞こえる。
「ミヒャエル……」
ふと、その中の一人の声がとても弟に似ていた。思わず手を止め、窓の外を見る。

――お兄ちゃん

(空耳だ)
彼は否定した。

――お兄ちゃん、どうしたの? ぼくはここだよ

そう笑い掛けて来る。が、そんな筈はない。弟は死んだのだ。

――ギル?

(死んだんだ)
弟とは髪の色も目の色も違うその子は、友人達に囲まれて、風の中へ消えて行った……。
彼は、ポケットの中から懐中時計を取り出した。蓋を開けると、それは悠久の時を告げた。それは、今にも過去にも通じる時間……。
「3時26分……」
それは、弟のミヒャエルが天へ向かって飛び立った時間だった……。そして、その蓋の裏側には二人の少年の写真……。一人は銀髪で緑の目。そして、ミヒャエルは淡い金髪で同じ色の瞳……。二人はまるで絵本の中の天使のようなやさしい微笑みを浮かべている。

――ぼくね、飛んでみたかったんだ。あの空を……

「ミヒャエル……」

――ぼくは飛べる。ホントだよ

「ミヒャエル! ダメだ! 戻って来るんだ! ミヒャエル……!」
14の時だった。建物の屋上で、彼らは空を見ていた。窓や柵で遮られずに広がる自由な空が見たいとミヒャエルが言ったのだ。それで、ギルフォートはそんな場所を探した。何にも遮られない空の見える場所を……。一番いいのは自然の丘の上だった。しかし、体の弱いミヒャエルをそこまで連れて行く訳にも行かない。公園や川原では人もたくさん通る。ミヒャエルは誰もいない場所で静かに空が見たいと言った。そこでギルフォートはそんな限られた条件の中から最も近い場所でそれが叶う場所を探した。

それが、この建物の屋上だったのだ。そこは、フェンスもなく、他に視界を遮るような高い建物も木もない。本当に空だけが見える場所だった。ミヒャエルは体いっぱい風を受けて空を見上げた。
「ほら、おいで。こうして仰向けに寝転んだら本当に空に吸い込まれそうだよ」
ギルフォートは笑って弟を車椅子から降ろしてやった。そして、二人並んで寝転ぶと黙って空を見つめた。やさしい風がミヒャエルのやわらかい髪を撫で、その同じ風がギルの頬を撫でる。
「見て! ギル! 鳥だよ」
自由な空を自由な鳥が羽ばたいて行く……。
「ぼくも飛んで行きたいな。あの鳥みたいに……」
半身を起こした彼の背中には、本当に翼が折り畳まれていた。
「きっと飛べるよ。いつか……」
ギルフォートが言った。ミヒャエルは、持って来たカレイドスコープを回して微笑んだ。やさしいオルゴールが風に流れる。

――お兄ちゃん、ピアノとっても上手だね。今度は何を弾いてくれる?
――『歌の翼に』……メンデルスゾーンの曲だよ
――わあ! 何てステキ! とってもきれいな曲だね、お兄ちゃん。まるで本当に翼が生えたような気がする……ぼく、この曲、大好きだよ! もっと弾いて、ギル……いっぱい聴かせて……ぼくの背中に、ホントの翼が生えるまで……
――ピアノが好きかい? ミヒャエル。なら、おまえも覚えればいい。教えてあげるよ
――ホント? お兄ちゃん。本当にぼくも弾けるようになる?

うれしそうな笑顔……。しかし、その小さな願いが叶う事はなかった。それから間もなく、父の会社が倒産し、ピアノはすぐに運び出されてしまったのだ。そして、それはピアノだけではない。家の中にあった全ての物が差し押さえられてしまったのだ。彼らは家も両親も失った。幸福の象徴だった青い鳥のレリーフも、ミヒャエルが描いた絵も剥がされて捨てられた。ギルフォートは、週末に少しだけ大人の手伝いをしてお金をもらった。それを貯めて買ってやったカレイドスコープに入っていた曲が、あの『歌の翼に』だったのだ。ミヒャエルはとても喜んで、それをいつも持ち歩いていた。

「風が冷たくなって来たね。そろそろ帰ろう」
とギルフォートが言うと、ミヒャエルは少し名残惜しそうな顔をしたが、すぐにこくんと小さく頷いた。
「また、連れて来てくれる?」
「うん」
ギルも頷いて弟を抱いて車椅子に乗せた。と、その時、ミヒャエルの手からカレイドスコープが落ちて転がった。
「あっ!」
慌てて手を伸ばすが間に合わない。円筒形のそれは風に流されずっと先まで転がってしまった。泣きそうな顔のミヒャエルに、ギルは笑顔で言った。
「大丈夫。お兄ちゃんが拾って来てあげる」
そうして、彼は車椅子を離れた。ギルは走って行って急いでそれを拾うとミヒャエルを振り返る。ミヒャエルは空を見て指差した。
「見て! お兄ちゃん。鳥があんなにいっぱい……」
それは渡り鳥の群れだった。
「すごいね、ギル。ぼく、こんなにたくさんの鳥を見たの初めて……」
興奮して身を乗り出す弟にギルは笑って声を掛けた。
「ミヒャエル、そんなに乗り出したら危ないよ」
弟の所に向かって駆け出した瞬間だった。スッと車椅子が滑り出したのは……。
「危ないっ!」
ギルが伸ばした手のすぐ先で、ミヒャエルは天使の翼を広げて空に消えた……。その翼の先端に引っ掛かって車椅子も落下した。鳥が視界を遮って、鳴き声がすべての音を消した。最後に聞こえたオルゴールの高い音が、いつまでも心の奥で木霊した。

――ピアノ……

ミヒャエルが泣いていた。

――ギルのピアノが……もう聞こえない……
――泣かないで、ミヒャエル。ピアノくらいまた、ぼくが買ってあげる。ぼくが大人になって、仕事をしてうんとお金持ちになって……。そしたら、ここにあった物全部買い戻してやるから……。絶対、手に入れてみせるから……
――でも……それは今じゃない! ぼくは、今すぐ聴きたいんだ! ギルが弾いてくれる『歌の翼に』が今、聴きたいんだよ!

「ミヒャエル……」
彼は立ち上がるとおもむろにピアノの方に歩いて行った。そして、そっとピアノの蓋を開けると、懐中時計の写真をそこに置いた。それから、ゆっくりと席に着いて鍵盤を弾く。記憶を辿って何とかメロディーを弾いた。それを追い掛けるようにぎこちなく左手が続く。

――お兄ちゃん……

写真の中のミヒャエルが不安そうに見つめる。
(ごめんよ。ミヒャエル、お兄ちゃん、上手く弾けなくて……)
途中で左手がわからなくなって途切れた。
「さすがに18年のブランクはきついな……」
そう呟いて苦笑する。
「ギル……」
ハッとして振り向くと入り口の所に彼が呆然とした顔で立っていた。
「ルビー……」
慌ててピアノの蓋を閉めようとするギルの手を飛んで来た彼が止める。そして、隣に座って笑い掛ける。
「続けて」
「おまえ、まだ傷が……」
「大丈夫。さあ、メロディーを弾いて」
ギルは言われるまま旋律を弾いた。すると、すぐに伴奏が付いて来た。あまりに甘く切なくて涙が出そうな程透明で自然だった。天使になったミヒャエルがうれしそうに覗く。

――何てステキ……! 何て美しい曲……。ありがとう、お兄ちゃん……

最高の微笑みを残し、ミヒャエルは羽ばたいて行った……。曲が終わっても彼はしばらくそのままでいた。
「これは誰? 天使?」
その写真を見てルビーが訊いた。
「……弟さ。おれと弟のミヒャエル」
「わあ! すごく可愛い! 本当に天使みたいだ。僕ね、絵本で見たよ。本物の天使はきっとこんな風なんだと思う」
手にしたまま、うっとりと見蕩れている彼の手から時計を取り上げると、彼はパチンと蓋を閉めてポケットに入れた。それから、彼の方を向いて言った。
「悪かったな。下手なピアノで起こしてしまって……」
「ううん。全然下手なんかじゃない。素敵だったよ。でも、知らなかった。ギルがピアノも弾けたなんて……」
「子供の頃、少しかじった事があるだけだ」
それから、彼は席を立つと、近くのソファーに腰を下ろして言った。
「聴かせてくれ。もし、体調が悪くなくて、痛みがないなら……。おまえの方が千倍も上手だろうから……」
「そんな事……」
ルビーが戸惑っていると、彼は僅かに視線を逸らして言った。
「聴かせて欲しいんだ。おまえの弾くピアノを……」
「ギル……」
初めてだった。ギルフォートがそんな言い方をするのも……。それに、ルビーのピアノをそんな風に聴きたいと言ってくれたのも……。
「無理をしなくていいから……」
「無理じゃないよ。もう、ピアノを弾いても全然痛くないし……。ただ、ちょっと驚いてるの。だって、ギルがそんな風に僕のことを認めてくれた事なかったんだもの。ありがとう。うれしいよ、とても……。本当にうれしい。だから、心を込めて弾くね」

ルビーが弾き始めると、彼は黙って目を閉じた。木漏れ日の中でやさしくそよぐ風のようにピアノは歌う。翼を広げた天使は自由な空で美しい黒蝶と戯れ、光の中を舞い踊る。

――見て! 今、ぼくは、こんなにも自由。こんなにも満ちて、光の中で、ぼくは幸せ……。遠くへ……うんと遠くへ……。あの空の向こうまで飛ぶよ。ねえ、ギル……。ぼくは本当に飛べたんだよ……

曲が終わり、ルビーが振り向く。と、ギルは瞳を閉じたまま静かに言った。
「もう一度」
「え?」
「もう一度頼む」
ルビーは頷くと再び『歌の翼に』を弾き始めた。二人の間に降り積もるやさしい時間……。
(続けてくれ。本当に、おれの背中に翼が生えるその時まで……)
しかし、それは途中で遮られた。誰かが戸口を叩いている。何度も何度も繰り返し……。ギルは立ち上がると、
Dankeダンケ……」
ルビーの背中に呟いて出て行った。ルビーはそのまま曲を弾き続けた。

 玄関を開けると、肌の浅黒い生真面目そうな青年が箱を持って立っていた。
「あの、お届け物なんですけど……」
青年は何となくオロオロした感じで家の中を気にしていた。開けた途端にルビーの弾くピアノの音がわっと広がる。
「ルビー ラズレインさんに……ここにサインをお願いします」
と言って枠を示す。
「ルビーに?」
退院したばかりのルビーがネットで買い物した様子はないし、ここの住所を知っている者は限られている。
(一体誰が……?)
ジェラードかエスタレーゼかもしれないが、ギルは何も知らされていなかった。解せないまま彼は箱を受け取ると差出人を確かめようとした。と、その時、ピアノがクライマックスを迎えた。それと同時に青年が叫ぶ。

「ダメです!」
いきなりギルの手から箱を奪い返すと慌ててそれを抱え込んだ。
「この箱はいけません!」
「何?」
「この箱は……爆弾…で…す……開けた…ら……途端に爆発……する……早く……逃げ……て……!」
喋り方が妙だった。
「ウウッ……!」
青年は頭を押さえてしゃがみ込んだ。その彼とギルの隙間からメロディーが流れ、空いている空間すべてを埋め尽くす。
「ああ、頭が……変な感じ……」
青年は、苦痛と快楽の表情を交互に浮かべ、体が硬直し、手は震えていた。

「どういう事だ?」
「これは、危険……! 爆発……あと、6分で……」
「何?」
ギルは彼の手からその箱を取り上げて耳を当てる。時を刻む微かな音が聞こえた。彼はそれを持ったまま表に飛び出すと家の前に停めてあったバイクを指差して言った。
「おまえのか?」
怯えたように頷く彼の顔を確認するよりも早く、ギルはバイクを発進させた。そして、すぐにスロットルを限界まで吹かすと、全速で河に向かった。

住宅街を抜け、河沿いの道を疾走し、人のいない場所を探す。だが、夕方のこの時間では、散歩する人や犬を連れた老人、学校帰りの子供達など、人通りが多かった。しかも、河の周囲には建物や施設もたくさんあった。河幅が広くなると、そこには遊覧船の姿も見える。
ギルフォートは更にバイクを走らせた。水中が一番よいが、地上でも広く安全な場所はないかと目を配る。しかし、ちょっとした森や広々とした公園にも、まだ人の姿が見える。
その間にも、時はどんどん進んで行く……。
やがて、1分を切り、30秒を切った。
河幅は更に広がり、河口に近くなって行く。と、遂に開けた河の何もない場所へ出た。
残り10秒……。
ギルフォートは周囲を確認するとバイクから飛び降りた。そして、その箱を思い切り遠くへ投げた。大きな河の真ん中にそれは落ちてチャポンと水音をさせて沈む。ギルは衝撃に備えて身体を伏せると耳を塞いだ。と、次の瞬間。激しい爆発により、巨大な水柱が上がった。しぶきがここまで降って来る。
「くそったれが……!」
頭の中に浮かんだ文字列が、彼の感情を逆撫ででした。ルビー宛に送られたその荷物の差出人の名前はこう書かれていたのだ。

――「君の親愛なるアヒルちゃんより」――

執拗なまでの『ヘビー ダック』のやり方に、ギルフォートは腹が立った。

 家に戻ると、先程の配達員とルビーがリビングで話していた。
「あの……爆弾は?」
ギルの顔を見て青年が不安そうな表情で訊いた。
「処理した」
ギルがあっさり応えると彼はホッとしたような顔をした。
「彼ね、チャーリーっていうんだって」
ルビーが言った。
「では、チャーリー。話してもらおうか?」

彼の話はこうだった。自分は、3年前にあの大学に入った。そして、2年下の弟もまた、同じ学部に入学し、二人は将来に希望を見い出していた。彼らは元々アジア地域からの難民で母はイギリスへ来てから再婚し、幸せだった。が、去年、やさしかった両親は事故で他界し、兄弟二人きりになってしまった。それでも、彼らは助け合い、共に大学へと進んだ。二人で会社を創るのが夢だった。そして、それは、半ば実現しかけていた。
そんな時、突然、弟が死んだ。あのジーン ゲートマンによる実験の犠牲者だった。1年生の中からランダムに選ばれた人間に、簡単な実験に協力してくれれば謝礼をくれるというものだった。弟は了承し、実験に参加した。それは、新しく開発されたサプリメントの効果を試す単純なものだったという。

「サプリメント? それってお薬なの?」
ルビーが訊いた。
「ええ。多分そういう物なんだと思います」
「それを飲むと何がよくなるの?」
「簡単に言ってしまえば、頭がよくなる薬ですね。と言っても、いきなり天才になるとかそういう物じゃなくて、神経細胞を活性化して疲れにくく、運動や勉強、社会活動などを生き生きと行うためのサポート剤だということでした」
「ふーん。でも、そういうのよくあるじゃない? 疲労回復のドリンク剤とか」
ルビーが言った。
「そうですね。でも、開発していたのは、もっと強力な物らしいです。それも、人種によって多少、成分配合のバランスを変えて、最もその人間に適した能力を引き出すための秘薬なのだとか……。だから、弟を含めて、その時、声が掛かった学生のほとんどはアジア人だったという事です。つまり、有色人種のグループという訳です」
「気に入らないな」
とギルが言った。『ヘビー ダック』が人種差別的な発言をしていたからだ。

「そうですね。でも、初めは全然わかりませんでした。でも、実験が失敗し、弟が死にました。そんな危ない実験じゃなかった筈なのに……! それで、おかしいと思って、いろいろ調べてみたんです。そしたら、過去にもそういう実験が行われていて……。犠牲者も……。大学は全て揉み消していますが、この数年の間に少なくても11件の死亡事故が起きていたんです。しかも、その全てが有色人種の学生でした。もしかしたら、この大学は……」
「その通りさ。奴らは、大学を隠れ蓑にして人類を選別しようという愚かな計画を企てている」
ギルフォートが言った。

「そんな……! 全人的教育を掲げている人類の理想と福祉の向上のための人材を育てる大学だと信じていたのに……。スミス教授に憧れて……それで、この大学を選んだのに……」
「残念ながら、首謀者は、そのエルトン スミス教授さ」
「まさか? あのスミス教授が……? 信じられない……。だって、彼は著作でも……。それに、僕はスミス教授の推薦を受けたからこそこの大学に……」
「君は心理学科の学生だったのか?」
「はい」
「そいつは残念だったな。だが、これは事実だ。現に君は爆弾を持たされ、ここに運んで来た。そして、ここにいるルビーを抹殺しようとした。つまり、スミスに利用されたんだ」
「……」
チャーリーはうなだれた。それから膝の上で卵を弄びながら人懐こい笑みでこちらを見ているルビーを見て言った。

「でも、何故、彼が狙われているんですか?」
「ルビーの母親は日本人なんだ。純潔でない者を奴は嫌う。おれが奴の邪魔をしたのが気に食わないので、おれの相棒のこいつの命を狙ったのさ」
「そう。それでね、僕、本当に死にかけたんだ」
とルビーが言った。
「家が本当に爆発して、気がついたら病院にいたの」
「そんな……」
無邪気な様子でルビーは続けた。
「熱くて痛くて息が出来なかったの。でも、僕は死ななかったよ。傷がいっぱい増えたけど、僕にはまだやる事が残っているから……僕は死なない。この卵のようにね。これは本物じゃないから生きていないんだって……。でも、生きていないから死んでもいない。不思議でしょう? だからね、僕も死なない。誰も僕を殺す事なんか出来ないんだよ」
そう言ってルビーはクスクスと笑った。
「そ、そうなんですか?」
チャーリーは目を伏せて弱々しく言った。ルビーは『ハンプティダンプティ』の歌を口ずさみながら卵を放って遊んでいる。

「信じていたのに……」
そう言って俯き、唇を噛むチャーリーにギルフォートは告げた。
「奴はスペンサーを支持し、ゴールトンを敬愛しているそうだ」
ギルフォートの言葉にチャーリーは頷いた。
「僕は騙されていたんですか? あのスミス教授に……」
「そうだ。奴こそ裏でこの大学を仕切っている影の実力者だ」
「ねえ、それじゃあ、そのスミスって人が『アヒル』さんなの?」
ルビーが訊いた。
「そうだ」
「アヒル?」
チャーリーは意味がわからずポカンとして訊いた。

「コードネームさ。奴は通称『ヘビー ダック』と言われている。テロ組織『レッド ウルフ』の幹部だ」
「『レッド ウルフ』? あの、時々ニュースなんかで世間を騒がせている?」
「ああ」
ギルフォートが頷く。
「信じられない……」
身近な所で大きな組織が動いている事を一般の人間のほとんどが知らない。そんな事は知らなくてもよい事だからだ。いや、知らない方が彼らのためでもある。しかし、着実に闇は彼ら普通の人間にも忍び寄っているのだ。

「ところで、何故、君はここへ爆弾を運んだ? そして、どのようにして中身が何であるかを知り、その危険をおれ達に知らせたんだ?」
「アルバイトだったんです。僕は以前から、時々そういう手伝いをしていました。学外の研究室や何かに書類や荷物を届けるとか……。でも、それらは本当にただ荷物を届けるだけの仕事でした。だから、今朝の呼び出しもまたそれだと思ったんです」
「呼び出し?」
「はい。携帯で研究室に呼ばれて、大事な届け物だからとここの住所を教えられました。初めは疑問など感じずに荷物を受け取って表に出ました。けど、ふとポケットの携帯が無くなっているのに気がついて、きっと何処かに落としたんだろうと建物の中へ戻ったんです。そしたら、ドアが少し開いていて、話し声が……」

「箱の中身が爆弾だって言ってたの?」
ルビーが訊いた。
「その、ハッキリとじゃありません。でも、総合するとそんな感じで……彼らは、今度こそ確実に吹っ飛ばすとか、失敗しても他に兵隊はいくらでもいるとか、周りの家が巻き込まれても隣に住んでいるのはアジア人の一家だから構わないとか……言ってましたから……」
確かにこの家の左隣にはインド人の一家が住んでいた。

「何て奴だ」
ギルフォートが吐き捨てるように言った。
「それで、教えてくれたの?」
ルビーが言った。
「いえ」
チャーリーは首を横に振った。二人は意味がわからずに顔を見合わせる。
「ここに来る前は何も感じませんでした」
「何も?」
驚いたような顔でルビーが言った。
「はい。携帯は、バイクの駐輪場に落ちていました。大学の指示は全て携帯を通して行われるので本当にホッとしました。それで、その携帯から、また新しい指示をもらって……。そうだ。何も疑問を抱くような事はなかったんだと、信じて僕はただ与えられた仕事をすればいいのだと……。何も疑問なんて感じませんでした」

「納得いかないな」
ギルが言った。
「でも、そうなんです。だけど……ここに来たら……ドアを開けた瞬間、ピアノが聞こえて急に……吸い込まれるように、心が空っぽになって……携帯の蓋を開けた時みたいに……いいえ、それ以上に気持ちがよくて……気がついたら喋っていたんです。何もかも……。止めなくてはと思いました。自分は取り返しのつかない事をしている……自分は人殺しになろうとしているんだって、突然気がついたんです」
「何故?」
「わかりません。でも、ピアノが……。あの曲がそんな気にさせたんです。そうとしか思えません」
と、その時だった。彼のポケットで携帯が震えた。チャーリーはビクッとしてそれを取り出し、蓋を開けた。そして、メッセージを読むと豹変した。目は感情を失い、身体は固く、唇が震えた。

「チャーリー?」
ギルフォートがそれを取り上げてメールの内容を読んだ。が、それは、単に明日の授業の変更連絡でしかない。
「暗号か?」
という問いにチャーリーは首を横に振る。
「怖い……」
チャーリーは頭を抱えた。
「何が怖いの? どうしたの?」
ルビーが訊いた。
「まさか、これが……?」
ギルフォートは彼の携帯を観察した。が、特に変わった様子はない。ごくありふれた型の普通の携帯だ。

「これを買ったのは何処だ?」
「それは、大学で支給された物です。大学に関するやり取りや連絡が全て携帯を通じて行われるというので新入生に配られたんです」
「おれは、大学院に所属しているが、そんな物もらってないぞ」
「支給されるのは大学生だけですから……。大学院では、限られた者のみに与えられていると聞きました」
「なるほど。おれは特別じゃなかったという訳だな」
とギルフォートは苦笑した。
「だが、それで正解だ。最もおれはそんな物に引っ掛かりはしないがな」
「どういう事?」
ルビーが訊いた。
「この携帯が怪しい。何か仕掛けがあるかもしれない……」
角度を変えて見回す。と、また、チャーリーが微かに顔を歪めた。

「ねえ、何か変な音がしてるよ」
ルビーが言った。
「音? 特に聞こえないが……」
と携帯に耳を当てて何かを聞き取ろうとするが彼には何も聞こえなかった。が、ルビーはそれを取ると耳を近づけるまでもなく言った。
「してるよ。すごく高い音でツーって……。それに、チッチッチッって波のように揺れる音も……」
ギルはチャーリーを見て問いた気な顔をしたが、彼は両手を軽く上げてわからないとジェスチャーした。
「すごくやな感じ……。強い力で無理に頭を抑えつけられてるような……いやだ! これ、頭が痛い……!」
と言ってそれをギルに返した。やはり、何かあるのだとギルフォートは確信した。そして、チャーリーの言葉を思い出す。

――ドアを開けたらピアノが聞こえて……。それで……

「ルビー、ピアノを弾いてみてくれないか?」
「え?」
「電波も音だからな。もしかしたら、音には音をぶつけたら効果があるかもしれない」
「そうだね。僕、やってみる」
と言ってルビーは『歌の翼に』を弾き始めた。すると、みるみる風の流れが変わり、苦し気だったチャーリーの表情が穏やかになった。そして、ルビーもうれしそうに笑う。
「治ったよ! 頭の痛いの。もう、どこも痛くない」
ギルは、彼らのように敏感に感じた訳ではなかったが、それがヒントだと確信した。学生達の洗脳を解く鍵が見つかったのだ。
「よし。ブライアンに連絡してすぐに調査してみよう」
ギルフォートは立ち上がると、ルビーの頭をそっと撫でて出て行った。
「あ……」
ルビーは微笑した。自分が役に立てたこと……そして、それをギルフォートが喜んでくれたこと……。それが、ひどくうれしかった。だから、彼が触れた手の温もりがいつまでも消えなければいいのにと、心からそう願った。